Tetsuji Yamamoto
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2017 This photo is public
山本哲士の
理論体系
公式HP
political sociology
philosophy
pedagogy
transdisciplinary studies
ウクライナへの軍事侵略は、世界秩序の組み替えのはじまり。いまこそしっかり国家論を考え直すとき。3部作+補遺2著=国家論5部作完結!
2016年11月にフーコー国家論、12月に吉本共同幻想国家論、2017年2月にブルデュー国家論を一挙に仕上げました。
フーコー権力論を領有したことで、国家論は不要であると思っていたのですが、ホスピタリティを様々進めていく中で、皆が賛同するのに実際がほとんど進まない、それは一体何故なのかを見直す過程で、「国家」の壁があることがわかってきた。吉本さんの共同幻想論を入門的に書こうとしたなかで、それが国家論不在のまま現在にいたっている、またフーコーの統治性が世界でも国家論として何ら描き出されていない状況が逆射されて、これは明示せねばならないと、30年以上まえの理論地平に戻ってみることにしました。
書き上げたそれぞれ600頁ほどの大著ですが、これによってマルクス主義国家観、ヴェーバー的支配論に停滞していた国家の本来のあり方が明示されたとおもいます。壁がいかなるものか、くっきりと把捉されえた。共同幻想が国家化され、そこに国家資本が形成され、そして統治制の国家配備が社会空間になされています。客観的諸構造と認知諸構造とが、それによって合致し、社会的代行為者social agentsとして諸個人は編制され、その誤認による再認が、意識・認識となっています。つまり自分たちが作った国家によって自分が守られていると構造化されている、国家=自分である、そこに保障された事態から抜け出せない。特に賃労働者として生活を保障されることから離脱する危うさを回避する。イノベーションは自分からはしない、大学改革の時がそうでしたが、企業が停滞しているのもそうだからです。自らを問わない、その効果の絶大さがある。
国家に実体はありません、それは超法規の、幻想であり、規整化された理念であり、統治制化において国家的配備が社会世界になされているだけです。社会の自然性が釈迦空間として実定化されています。国家間の均衡は、日々戦争状態にあり(軍備)、国内の秩序化(税制)がなされます。制度化は平和のための戦争です。
国家資本として主語制様式が集中化・統一化・普遍化(同時に、客観への綜合構成)され、主語的主体と客観への科学技術的な総合化がなされており、官僚制による統治がなされ、人びとの日常生活の認知構造、認識アクトがそこに規定されてしまっている。それが、新たな物事を動かせなくなっている根拠です。
国家資本化されていないのが、述語制様式で、これは場所資本において動きえますが、これが日本文化の本来の基盤です。日本語は述語制言語です、主語はありません。伝統工芸文化技術や場所キモノの染織技術などが衰退しているのは、国家資本化されえない述語制にあるため、排除されているからですが、残滓しています。
国家論3部作を仕上げて
1979年の処女作。
2021年6月20日、定本として再刊。
これが全ての始まりですが、日本における批判理論の新たな次元です。今振り返ると、統治性としての制度化の本質を考察したもの。経済決定論からの離脱ですが、それが、国家論自体の見直しを自分へ課していた。産業的生産様式の制度化は統治制の基軸です。
フーコー/ブルデューの不可避の領有、そして吉本/ラカンの一歩先への深化となります。
国家と<私>の関係構成を説く;「再認」と「再生産」
主語制様式の主観的・心的な再認・誤認論と客観への綜合の再生産様式を考察します。
再認・誤認論は、ラカン理論を国家論へと活用した考察です(2017年7月刊行)。
再生産理論は、2018年7月刊行。ehescbook.comで直販しています。
④
補遺1では、ラカンのメビウスの帯的な関係と欲望グラフの活用、Rシューマ、Iシェーマの平面的考察にとどめていますが、補遺2の再生産論ではクロスキャップの立体的な構成へと考察を進めます。
再認・誤認と国家:ラカン理論の活用
⑤
補遺2では、クロスキャップの国家構造と
ラカンの多様なボロメオの輪を活用した再生産様式を解析しました。再生産は無概念ですの諸要素の理論配置をなすだけなのですが、それをもっての理論生産という難題への取り組みです。補遺1から1年もかかってしまった根拠です。564📄の大著。
こちらをごらんください。
吉本「共同幻想国家論」とフーコーの国家論
共同幻想の国家化と統治制
ブルデューの国家資本論
国家論は、本質論としての幻想論とその歴史的段階としての近代国家との構成がどうなっているかの明証化ですが、西欧的なものと日本的なものとを超えていく理論次元と、日本的特殊性とを描き出さねばなりません。日本国家論を書き上げてもいいのですが、その根源指標は、これらで提示してあります。
国家論と言語論のないいかなる考察も、力を持たない。
大学闘争で、レーニン国家論がなんら機能しないことを痛感、むしろグラムシの合意論の方が納得いき実践体験をへて、どうしても社会主義革命を明らかにしたく、キューバ社会主義を修士論文にて、さらに革命とはなんであるかをメキシコ革命研究として博士論文にて考証。アカデミズムへの微かな抵抗を込めて実証研究しましたが、社会主義批判、革命批判へと至ります。同時に、実証研究の本来的な限界を痛感し、理論がないことでの理論探究へと舵をきりました。
国家論としては、プーランザス、ジェソップ、カーノイらを学びましたが、まったく納得いかず、フーコー権力論、ブルデュー象徴権力へと歩みます。わたしには、共同幻想論は「国家論」ですので、現代社会の学校、家族、個人の幻想構造の明証化へ進みますが、「国つ神論」で、古事記を解読し、書紀幻想と異なる「場所共同幻想」を見出し、そこから国家論総体を転じました。ブルデュー講義の国家論が出たので、整理がついたと言えます。そこから、アルチュセールのイデオロギー的国家装置論の限界がはっきりして、この5部作となりましたが、ラカン理論をやっと組み込めたことが、最大の成果です。
これで、「述語制」の言語理論がぶれない指標がはっきりして、前へ進めていける。
国家論なき批判理論は、浅薄にしかならないのは、日本だけでなく世界も同じです。机上の絵空事ではない、自分の存在様式そのものの問題です。
次ページで、理論構図を整理しておきます。