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国つ神論

 

古事記の徹底解読です。

日本書紀の言説空間は「葦原中国」を均一化した、現代の「社会空間」の画一性へ繋がる設計ですが、古事記は場所ごとの「多元空間」の神話言説です、日本にはこの二つの異なる設計原理がある、その古事記空間へのシフトがいま起きているいることであり、それに対して書紀空間の反動化が同時におきています。

 

書評

高橋輝雄、『週間読書人』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高橋順一(早稲田大学教授・思想史)『出版ニュース』

MY BOOKS

昨年は古事記完成1300周年ということで古事記ブームが席巻した。その余波は現在も残っている。まだ古事記関連本の刊行が途切れることなく続いているからだ。そうしたなかで瞠目すべき著作が出た。山本哲士の『国つ神論』である。なぜ古代史の専門家でも上代文学の専門家でもない山本の著作を注目すべきなのか。それは、この著作において、これまでの古事記研究、あるいは古代天皇制研究において原理的に欠落していた視点が極めて鮮明に打ち出されているからである。すなわち、吉本隆明の『共同幻想論』において示された「共同幻想」の位相・水準・変移に関わる方法論から古事記の神々と神話の世界の構造を原理的に読み解いていくという視点である。安易な実証性への還元でも、たんなるナラティヴや記号論の方法操作でもなく、古事記の表現をあくまで共同幻想の表出構造において見ていくこと山本は本書で追い求めるのである。そしてこの視点から山本が論じようとした古代ヤマトにおける極めて多様な共同幻想の構造・運動の変遷と推移の相は、期せずしてこの間出版されたもう一冊の古事記関連の注目すべき著作である村井康彦 ―― この人の古代王権論や近江地域史研究には前々から注目していた ―― の『出雲と大和 ―― 古代国家の原像をたずねて』(岩波新書)の議論と構造的かつ原理的に重なりあうのである。これは私にとって驚きであるとともに大きな喜びであった。ひとことでいえば、「記紀」を同一化しての歴史意識を通して刷り込まれてきた、この<日本>が古代以来イザナギ・イザナミを始祖とし、<高天原>の主アマテラスによって基礎が確立され、さらにニニギの<天孫降臨>を経てイワレヒコ=神武を初代の統治者とする天孫系国家(天孫系の後継者であるスメラミコトによって歴代統治されてきた「葦原中つ国」という統一空間の上に成立する国家)であるという強固な先入観念を、山本も村井もものの見事に根底から覆してみせたのである。 では何によってその顛倒はもたらされるのか。山本の著作でその根拠、原理となっているのが「国つ神」という概念に他ならない。それは天孫系の共同幻想を象徴する「天津神」に対する強力な対抗概念である。そしてその対抗性のうちには核心的な要素として「場所」という契機が内包されているのである。この「場所」という契機にはいろいろな要素がからみ合っており明確に語るのは難しいが、とりあえずいえるのは、「国つ神」が、「場所」の固有性と結びつく共同幻想の水準に立って、天津神=天孫系が作り出そうとする一元的な垂直支配とその根拠となる均質的な政治空間に多元的に対抗しているということであり、さらには「国つ神」の場所共同幻想の視点に立つとき、古代ヤマトの世界は、相互に異質であり、極めて多元的で多様であるような複数の共同幻想どうしの緩やかな連合によって成り立つ世界となるということである。これは村井もその著作で明らかにしていたことであった。そこには、<高天原=上・天>と<葦原中つ国=下・地>さらに<黄泉国=地下>という宣長・篤胤から西郷信綱などにまでいたる、垂直的な上下関係(上から目線)を突き崩すという意味あいも含まれている。国学によって「死者の国」=幽界とされた「黄泉国」こそが、国つ神そのものの本来の<生者>の場所であったと解読する。黄泉国へ行ったイザナミはイザナキと対話しており、闘い合い、さらに堅州国にスサノヲは生存しておりそこへ大国主が行って帰ってきているではないか、など等と、関係を水平化する。 そして「国つ神」の象徴、というより総元締めというべき存在がオオクニヌシである。とするならばこの「国つ神」の概念、あるいは場所共同幻想の問題は必然的にオオクニヌシの本拠地である「出雲」に関わってくる。山本の議論をふまえれば、「出雲」は一地名というより、場所共同幻想のゆるやかな多元的連合によって成立する共同幻想の構造的布置の代名詞と考えてもよいような気がする。その「出雲」で起こった国つ神系と天神系の出会いと協働こそが古代ヤマト最大の転機となるのである。それを寓話化したのが「国譲り」神話に他ならない。ただこれを単純な天孫系による出雲系の征服物語と考えてはならない。そう理解してしまうと、大和の国魂=国つ神(場所共同幻想)として、オオクニヌシの分身といわれるオオモノヌシ(オオナムチ)が御諸山=三輪山に手厚く祀られていることの意味がわからなくなる。しかも大和にはアマテラスはいないのである。山本の言い方でいえば、アマテラスは崇神の時代に強力なオオモノヌシの力で大和を追放され伊勢へと移動する他なかったのである。山本と村井の両著作で極めて刺激的なかたちで示唆されているのであるが、スメラミコト統治以前の古代ヤマトには、北九州から大和、近江、丹波を経て、高志=越の国にまで至る広大な<出雲国つ神連合国家>がどうやら存在していたようなのだ。このスメラミコト=天孫系とそれ以前の出雲系とがのあいだの時間的順序を誤ってはならない。そしてさらにいえば、オオクニヌシ=出雲はスメラミコトによって根こそぎ支配されたわけではなく以後も並立していたことが、三輪山の大神神社でオオモニヌシが祀られていた事実からわかるのである。象徴的にこの二神は同一化されるが、山本は場所の「国つ神」視座からみて区別されるべきだと主張する。なぜか。このとき本書のもっとも重要な視点が提示されるのである。引用しておこう。「神話の時間順序は、出来事として表象されたものは、後に書かれているのであるから、時間は逆行/反転する。(……)内の歴史としての遡及性である。そこから観ていけば、天津神が場所へと入っていった(進出・侵略していった)、それが国津神が天皇制へ入っていくことになった(服属を自らの側から受容していく)ということだ」(96頁)。この時間の順序に従えば、古事記において神話のもっとも古層を示しているのがオオクニヌシ=出雲の語りであり、冒頭の国生み神話は時間的には後の出来事ということになる。つまり天孫系神話の系譜は国つ神の語りの系譜よりはるかに新しいということである。山本は国つ神系を海人族(海部)と考え、天孫系を山人族と考えているが、このことは日本列島の最古層を形づくっているのが大陸南西沿岸部からやってきた水上系部族(現代の「客家(はっか)」のようなもの)であり、天孫系はその後朝鮮半島を経由してきた農耕系部族であることを示唆しているような気がする。このことは山本が描いた古代ヤマトの共同幻想の世界をさらに大陸との関係、渡来人の問題などにも広げていく契機になるだろう。事実山本も指摘している出雲系のタケミナカタを始祖とする信州の諏訪大社は明らかに海人系の国つ神を祀る社である。山本のこの著作は決して趣味の古代史などではない。山本が国つ神を通して場所共同幻想に固執するのは、ひとつには吉本共同幻想論のより発展的な解読の道すじを明らかにするためである。国家=天皇制の共同幻想に対して場所の共同幻想を対抗させようとする山本の視点は、吉本の、あらゆる共同幻想は死滅すべしというテーゼから一歩踏み出そうとしているのだ。それは同時に、「天つ神と国つ神との共存」こそが日本の設計にとって重要な意味をもつとしている点にある。日本書紀の一元統合的設計と古事記の場所多元的統治構造との、二つの異なる設計原理が日本にはあるとする。そしてより重要なのは、山本が場所共同幻想の復権に3・11以後の日本の再生の方向性を賭けようとしていることである。この点をぜひ読者は本書からくみ取ってほしいと思う。ともかく快著である。括目して読むべしである。

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